投資家の器
最近感じるのは、人それぞれ投資家としての器が存在するのでは?ということ。
『投資は余裕資金で』というのもその現れのひとつかもしれない。
頭の中では『30%の損はありえる』とわかっている。現実に起きたとして、10万の投資、(3万の損)であったらそれも冷静に受け止められるかもしれない。しかしそれが1000万の投資(300万の損)になったら、
『うわ〜俺の年収分じゃん』と勝手に脳内変換してしまう。(損失としては同じはずなのに)その自分の中の器があふれ出て我を失ってしまう人はそこまでの器。どれだけのリターンが期待できようとそれ以上の増額は身を持ち崩すでしょう。
お金持ちになる唯一の道だとしても、それを実行することができないのなら、あきらめるしかないのです。株式のリターンや搾り取られる税金を補うくらい必死で働くしかないでしょう。何をどうあがいたとしても、市場に資金を投じる行為はリスクというものを避けては通れないのだから。
これはすなわち『お金持ちとしての器』と同義のような気がしてなりません。結局器のない人が多額のお金を持ったとしても、精神が受け付けないでしょう。。
最近は投資家としての腕を磨くだけでなく、自分の器を広げていく修行が必要に感じてきました。投資家としてはいつまでも庶民の感覚ではだめなのでしょうね。
『真の英知とは決断することなのです』 by 横山光輝 『史記』(あやふやな記憶)